なぜ今更ここでエージングについて書かねばならないのかとも思うが、未だにエージングについてよく理解されていないようなのでエージングルームを作ったきっかけを書いておこうと思う。
今から40年ほど前の話である。近所にあった住田物産の半田社長とは戦前からの知己で社長室を頻繁に訪ねていた。あるときたまたま部屋の棚に各国から送られてきた珈琲の見本が梱包のまま置いてあったのを見つけた。それは大分前からあったもののようで、梱包の色が変わっているほどだった。
これに目をつけ、何個か手に入れて早速サンプルロースターで焙煎して飲んでみると、ニュークロップ豆とは比較にならないほど、目が覚めるくらいの差があることに気づきエージングをやってみる価値があると踏み切ったしだいである。
その後、珈琲の品質が低下してきてしまい今やエージングしても骨折り損の場合が多く賭けになってしまう。それでも、かつて10年くらいエージングして駄目で諦めていた”DL社のマタリ”が20年目に大化けして大変な評価を受けたことは今でも語り草となっている。
オールドコーヒーについてさらに意を強めたことがあったので、それも書いておこうと思う。
店を始めて間もなくのころ、物資の流通には闇商人が主体で活躍していたものだ。ある日、その中の顔なじみの商人が珈琲の生豆を持ってきた。見るとかなり枯れていて(時間が経っているようで)状態の良さそうな珈琲で、品種はスマトラ産のマンデリンであろうと予想した。早速テストをしたとき、この豆には驚いた。
戦前に私が飲んだ五指に挙げる内の1つのマンデリンではないか。
保存状態もよかったので、この豆にとびつき、かなり高価ではあったが無理して大量に買い付けることができた。この感激は今も忘れられないことの1つである。
この珈琲については後でわかったことがある。
ドイツでは古くからインドネシア地方のコーヒーを本国に送っていた。しかし、戦争を始めたためにスエズ運河が閉鎖されてしまい喜望峰経由で遠路運ぶようになり、その際連合軍の海軍に見つけられないよう潜水艦を利用していた。
だが、このような手間を省くため日独伊三国同盟の日本に一度陸揚げしておいてから、独ソ不可侵条約のあったシベリア鉄道で輸送する手段を使いだした。ところが、独ソ戦争が始まりこの手段も使えなくなってしまう。日本に陸揚げされていた珈琲は戦争が終わりドイツが崩壊したため持ち主が無くなり、前橋等の乾繭倉庫に保管され長い間眠っていたのである。この珈琲豆が偶然オールドコーヒーとなって市場に出てきたというわけである。
オールドビーンズ |
ニュークロップ |
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グリーンがかった色のニュークロップが、オールドビーンズになるにつれセピア色に変化していく |
現在輸入されているマンデリンは、名前はマンデリンでも似て非なる珈琲で、どうしてこのように劣ったものになったのか、インドネシア地方では或いは略奪耕法が原因ではないかとも言われている。一日も早く元の良質なマンデリンに戻ることを祈っている。