これについても一筋縄では解決できない事柄で、やはり長年苦労を重ねてきた。
かつて戦前、金沢にあった日本硬質陶器という会社が輸出用のとてもいいカップを作っていた。薄手で型もなかなかのものだった。こんなカップを揃えたいと常々思っている。
戦後になってアメリカの影響か、型がみな大ぶりになりドゥミタッスと言っているものでも70〜80cc位の容積で、普通のカップでは120〜150ccである。アメリカン・コーヒーのように紅茶の代用で普及した薄いコーヒーでは量が多くても仕方がない。しかし、これでは愉しく愛でられる上質の珈琲を入れるには似つかわしくなく、野暮ったくなってしまう。おそらく珈琲の良さをわかっていない陶芸家や職人が作ったものであろうと考えられる。さらに言うと、カップの内側まで着色や模様を入れてしまい、せっかくのきれいなコーヒーの色を妨げて愉しさを阻害している。知人の写真家がアンデスの山奥で現地人が使っていた粗末なカップを土産に持ってきてくれたが、驚いたことに内側は真っ白できれいに仕上げてあった。これには頭が下がる思いがしたものだ。
ランブルではフレンチスタイルの濃い目の珈琲を目指しているので、既製品のカップでは使いにくい。何とかランブルの珈琲に適したカップがないかと捜し歩いていた。あるとき偶然、日本橋人形町の露店で戦災で焼け残った半端物を並べている店にあった日本硬質陶器のカップを見つけた。在庫の300個ほどを買うことができ、だいぶ長く使っていた。しかし消耗品なので、後々の補充を考えて見本を持って陶器会社へ相談に行ったが、ポットのときと同じように発注数量が多く大手の大倉陶園やノリタケでは10,000個が最低の数量で望みは薄かった。そんな時、神田の瀬戸物屋の主人から「自分で作ったら」と京都の清水六兵衛門下の窯元を紹介してもらい、京都の陶器祭(毎年7月)の休みにあわせて行き、協力を願った。
二夏二年越しで轆轤を回し、いい物ができたと自負して試作品を店に出してみた。形のバランスと容量の関係で、高台をスカートのように下に延ばした形になり、底が浅くなっていたため「これは上げ底だ」と揶揄され下種の勘ぐりだと残念であったが使用をやめた。
「上げ底だ」と揶揄されたカップ |
その後、ブリジストンが重油の窯を試作し、試運転を京都でするので少量でも焼いてくれると聞きドゥミタッス・カップを200個程作った。50cc位入る小型のカップができたが、カップの部分がまだまだ厚い。コーヒーカップはどれも分厚いできが多い。「どうぞ冷めないうちに召し上がって」という台詞をよく聞くが、これはオーストリア宰相のタレーランのコーヒー礼賛台詞「地獄のように熱く、悪魔のように黒く、天使のように潔く、恋のように甘い」が金科玉条のように信じられ、既成観念が定着し熱くなければならないと思われているからであろう。そこで冷めないように厚手のカップになったのではないかと思う。
ものの味は人肌くらいの温度が一番欠点が分かるという。味に自信のある酒などは、人肌で飲むことを勧めるものだ。「ランブルの珈琲は美味しいがぬるい」と手を抜いているように言われることがある。好みには個人差があるのでやむを得ないと思うが、熱くしないのにはきちんとした理由があるのである。それでも熱くして飲みたい方は言ってくれれば熱くもできる。
1980年に待望のドゥミタッス・カップができた。50ccがちょうど入る大きさで、九州の有田の窯元で3,000個ならという条件で取手付きと無しの2種類ができ、図柄のデザインは私が描いた。中の珈琲がカップの外から透けて見えるほど薄い磁器で、唇に当たる感覚も申し分ない。これは全国の専門店でも欲しいのではなかろうかと写真付きのカードを作り、目ぼしい店に送ってみた。早速見本として半ダースの注文が多数きたので、1年くらいで全部捌けるのではないかと自負したが、その後は一向に注文がなかった。後になってわかったことだが、店の飾り棚のカップとしては申し分ないが、小さいのでお客さんから一人前のお金を頂けないということだった。これが原因だったとすれば、当時の日本の珈琲界のレベルは知れたものだ。
中の珈琲が透けて見えている | ||
後日、窯元から「次の注文があっても今までの薄手のものは作れる職人がいなくなったのでできません」と通告があった。そのため、やむを得ず店での販売はできなくなってしまった。